会社と人生を狂わせる「うつの正体」

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会社と人生を狂わせる「うつの正体」

 

 あなたの会社では何人がうつで休んでいるだろうか。公務員の統計では国家公務員の1%強、地方公務員の1%弱が、主にうつが原因のメンタル休職者だ。民間企業でもこれが目安となる。うつ休職者が、公務員並みの1%くらいに抑えられていれば、その企業の人事部は優秀だと見なされる。「IT企業なら3%台で上出来」というのが人事関係者の認識である。1カ月に100時間も200時間も残業するSE(システムエンジニア)でうつの発症が多いからだ。

 わずか1%の休職者といっても、大企業ならかなりの人数になる。社員1万人なら100人がうつで休んでいることになる。限られた人事部スタッフで、その100人をケアするのは簡単なことではない。

 会社にとってうつが厄介なのは、うつが再発しやすい病気だからにほかならない。1度うつになると、治っても6割が再びうつになるといわれている。2度うつになると7割、3度なら9割と、再発率は高くなる。

 職場のうつは、復職を焦れば焦るほど再発する。そして再休職に追い込まれれば、本人も会社もつらい。そこで、うつ休職者ときちんと向き合い、休職者を復職させる仕組みを充実させる企業が増えてきている。そもそもうつにさせない職場作りの研究も進んでいる。

 一方で、製薬会社の啓発キャンペーンやメンタルクリニックの急増が、うつっぽい社員をうつ休職に向かわせている側面もある。

 会社を悩ませ、社員の人生を狂わせかねない、うつの正体を追う。

■ 機械的診断が増やすうつ

 診断マニュアルが診療を効率化した。直感頼みからは進歩だが、うつでない人までうつと診断する弊害が指摘されている。

 残業に次ぐ残業で疲労困憊の鬱加茂治朗(仮名)は、外回りの途中、メンタルクリニックの看板を見掛ける。「最近うつが多いらしいな。次のアポまで時間があるし、俺も試しに入ってみるか」。

 簡単な受け付けを済ませると、待合室が混んでいるにもかかわらず、なぜかすぐに診察室へと通される。

 「どうされましたか」と心配そうに質問する若い医者に、治朗は「暇潰しの冷やかしです」とはさすがに言えず、「何となく気が重く、やる気も起きなくて」と答える。

 「ほとんど一日中、憂鬱な感じでしょうか」。そう聞かれた治朗は、少し考えてから、「そう言われれば、そんな気がします」。

 医者「ここ2週間、そんな感じでしょうか」

 治朗「(2週間も前のことは覚えてないけど)多分、そうです」

 その後も「食欲は? 」「疲れやすい? 」「眠れてないでしょ? 」と矢継ぎ早の質問。言われてみれば、若い頃に比べたら食欲もないし、疲れやすいし、最近子供がうるさくてよく眠れていない。そこで、「全部そのとおりです」と答える。

 医者は「DSM-IV」と書かれたマニュアル本(通称・ミニD)をパラパラめくった後、こう告げる。

 「あなたは典型的なうつです。休職したほうがいいですね。会社に提出する必要があるなら、今すぐ診断書を書きますよ」

 診察室に入って10分足らず。冷やかしのつもりだったのに「うつ」の診断が下された。落ち込んだ治朗はアポのことも忘れ、会社に連絡も入れずに自宅に直帰した。

 以上はあくまでも機械的な診断を単純化したものだ。良心的な医者であればもっと多方面から問診し、慎重に病気を見立てるかもしれない。だが、良心的な医者ばかりではない。「精神科医の中には聞き下手が多くて、患者の話をふんふんと聞き流した後に、やおら『うつですね。2週間分の薬を出しておきます。また来てください』とぶっきらぼうに言い放つ、古典的な診療をいまだにしている医者もいる」(精神科医の斉尾武郎氏)。

 DSMすら参照せず、直感を頼りとした診断をする精神科医も依然多い。そのことを考えると、マニュアルどおりのほうがまだマシという見方も成り立つ。

 

■ 内科医も裁判官も使う便利な診断マニュアル

 ここで重要なポイントは、こんな安易な診察も可能だということだ。

 簡単で速い診断を可能にしたのが1980年代以降に普及した米国精神医学会のDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)である。今やデファクトスタンダード(事実上の標準)と見なされ、世界中の医者のバイブルといってよいものだ。

 II版までは遺伝や性格といった原因でうつを分類していた。このために医療の現場では、原因を探るのに手間と時間がかかった。しかしそれでは効率的な診察ができない。そこで当時の米国精神医学会は大きく舵を切る。

 III版からDSMは症状による診断に大転換した。原因はさておき、症状そのものを病名にするというわけだ。単純化して言えば、「腹が痛い」と患者が言ってきたら、「ハライタイ症ですね」と診断し、痛み止めを処方するようなものだ。

 DSM-IVの特徴は、症状の質問項目を一つひとつ当てはめていくと誰でも機械的に診察できる簡便さにある。

 DSMはその使いやすさゆえに、精神科医以外、たとえば内科医でも患者をうつだと診断し、抗うつ薬を処方できる。それどころか、医療現場を越え、裁判実務でもDSMは使われるようになった。第一協同法律事務所の峰隆之弁護士によれば、「精神科医の参考意見が求められないまま、裁判官が『事実認定』において、DSM-IVを用いてまるで医者のようにうつを診断。司法判断の根拠にする例もある」。

 仕事上のミスや悪天候などが重なれば、誰でも気分が落ち込む。だが、大抵はしばらくすると元気になる。一方、うつは日常生活に支障を来すほど持続的な気分の落ち込みとされる。ここで問題は、どこまでが一過性でどこからが持続的とするかだ。

 正常(憂鬱)と異常(うつ)の境は人為的で、あいまいなものだ。

 DSM-IVの作成委員長を務めたアレン・フランセス氏は自著『〈正常〉を救え』の中で、「うつの条件に科学的な必然性があるわけではない。どこに基準を設定するかの最終判断は主観的になる」と断言している。うつの必要条件の「2週間の持続性」という期間にも、実は客観的な合理性はない。米国精神医学会の識者がこのくらいが適当であろうと多数決で決めたものだ。

 

■ ストレスチェックでうつ社員あぶり出し

 うつの原因のひとつとされるストレスチェック(以下SC)が、法律で義務化される方向にある。国は1月下旬からの通常国会で労働安全衛生法を改正し、すべての事業者と従業員に対し2015年度にもSCを義務づける方針だ。

 このSCは「職場環境のストレス度を経営者が把握するためのもの」というのが理由。だが、義務化予定のSCは9問(上表)。これらは「実はうつ社員のあぶり出しに使える」(ある精神科医)。疲労、不安、抑うつの3項目について、最近1カ月間の状態がどうだったかをそれぞれ答える。ほとんどなくても1点、ほとんどいつもあれば4点。各項目で合計点が一定以上だと高ストレス者と判定される。

 SCのおかげで重症のうつを発見できれば、救われる人もいるとみられる。一方で、冒頭の治朗のように、うつでもない人がうつと見立てられるリスクも指摘されている。

 (週刊東洋経済2014年1月18日号)